越後村上と鮭
越後村上と鮭
■江戸時代以前の三面川と鮭
村上市北東部の旧朝日村大字三面は、通称「奥三面」(おくみおもて)と呼ばれる集落でしたが、平成13年10月に完成した「奥三面ダム」の貯水湖に沈んでしまいました。
「三面」では縄文時代を中心に旧石器時代から古墳時代(約30,000年前~約1,400年前)までの19ケ所の遺跡で生活の痕跡が見つかっており、そこでは鮭や鱒を食べた痕跡もあったそうです。今は三面ダムにより、それより上流には遡上はできませんが、三面川河口から約40kmの三面集落まで鮭鱒の遡上があり、貴重な食料であったと考えられています。
越後・村上(新潟県村上市)と鮭の関係は古く、平安時代中期に編纂された「延喜式」に越後国から朝廷へ鮭を献上していた記録があり、村上の鮭も含まれていたと言われています。
※延喜式:平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則を集大成した古代の朝廷運営マニュアル。
三面川(当時は瀬波河)の名が歴史上の記録として記載されているものは平安時代末期「南部文書」の「国宣」です。越後国司から出された「国宣(中央官庁からの通達)」には以下のように記されていました。
「但於瀬波河者 有限国領也 就中漁鮭為重色済物 庄家不可成妨」
「三面川は国の持ち物である。鮭は都への大切な貢ぎ物あるので、土地の役人であっても勝手にとってはならぬ」
これは当時から三面川の鮭は貴重なものとして扱われていたことを表しています。
■鮭の増殖事業(江戸時代)
「鮭の町・村上」という名を決定づけたのは江戸時代中期の「種川の制」によるところが大きいと思われます。
江戸時代中期に三面川の鮭漁はほとんどとれないという状態に陥りましたが、これに対して人為的に「増殖」を行うことに取り組んだのが村上藩・青砥武平治であったと伝えられています。青砥武平治の建議による「種川の制」を布き、当地を流れる三面川(みおもてがわ)において当時世界で初めてといわれる「鮭の増殖事業」に着手する事となりました。これは鮭の回帰性に基づき「いずれ母川に戻ってくる鮭の稚魚をどのように増やすか?」ということが原点となっています。そのために採捕の区域・時期の制限や人為的に川の流れを整備して鮭が産卵しやすい環境を整えるなどを行いました。青砥武平治は村上藩きっての土木技師であったと言われおり、当時その手腕を存分に発揮していたと思われます。
しかし一口に「整備」と言うものの31年の歳月を要しており、村上藩の大事業だったことは間違いありません。この成功により村上は更なる鮭文化の発展を遂げるとともにその長い歴史の中で数多くの鮭料理を練り上げてきました。
■人工孵化への取組み(明治時代)
村上市・三面川では明治11年に三面川の鮭から25万粒を採卵し、サケの人工ふ化に成功しました。当時減少していた鮭の遡上数も増加に転じ、明治17年には三面川の最高記録73万7千尾となるまでに増えました。
アメリカで学んだ技術を駆使して明治10年に日本で始められたサケの人工ふ化放流の功労者・関沢明清(あけきよ)(1843~1897年)は加賀藩(現在の石川県)の出身で、15歳の時に江戸に出て蘭学を学び、後に加賀藩が幕府に内密でイギリスに派遣した留学生3人の中の1人でした。
サケの人工ふ化に取り組んだ明治10年に茨城県の那珂川での実験が成功したことから、次の年(明治11年)に石狩川(北海道)、最上川(山形県)と三面川でも人工ふ化放流に取り組む事となりました。特にサケに熱心な三面川の反応は早かったといわれており、早速ふ化場が建てられ、着手初年度から人工孵化に成功しました。